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  • レッスン139

私は自分自身に贖罪を受け入れる

これが選択の終わりである。

ここで、私たちは神が創造したままの自分を受け入れる決断に至るからである。

そして、選択の余地とは
自分が何であるかについての確信の欠如を示すものである。
これに反映していない疑念、疑問はない。

「私は何なのか」というこの単一の単純な問を伴わない葛藤は存在しない。

生命ある存在が確かに知ることが出来る唯一のことは、自分とは何であるかということだけである。

自分が何であるかについての確信の欠如は あまりにも大規模な自己欺瞞であるため
その巨大さは想像を絶するほどである。
生きていながら自分自身をしらないという状態は
自分は死んでいると信じていることである。

あなた自身として存在すること以外に、どんな生命があるというのだろう。

「何なのか」という答えを知らなかったとしたら
そもそも生きているはずはない。
しかし、生きているのだから
本当はすでにそれを受け入れているはずである。

そして、そのうえで、それらに逆らった判断をし、その価値を否定し
それから、自分を生かしている唯一の確実性を自分は知らないと決断したのである。

あなたによる否定は、あなたの本性を少しも変化させることはなかった。

しかしあなたは自分の心を、真理を知る部分と知らない部分とに分割してしまった。

あなたはあなた自身である。
このことに疑いの余地はない。
だが、それでもあなたはそれを疑っている。

贖罪が治癒するのはこの奇妙な考えである。

すなわち、自分自身を疑い
自分が本当は何なのかについて確信を失うことが可能だという考えである。
このような考えは、狂気の極みである。

あなたが何であるかは確かなことなので、あなたに求められているのは
ただそれを受け入れることだけである。

私たちには、ここで果たすべき使命がある。

私たちはただ自分たちの幸せを得るためだけにきたのではない。
私たちが自分の本性として受け入れるものが
私たちとともにすべての人々の本性も宣言する。

兄弟を見捨ててはならない。
彼らを見捨てれば、自分を見捨てることになる。
彼らに愛のまなざしを向けなさい。
それによって、彼らは自分たちがあなたの一部であり
あなたが彼らの一部であると知ることができるようになる。

今日は贖罪を受け入れなさい。
実相を変えるためではない。
ただあなたについての真理を受け入れるためである。
そうして、神の無限の愛の中で、喜びを抱いて自らの道を進みなさい。
私たちに求められているのは、ただこれだけである。

☆私は自分自身に贖罪を受け入れる。
 私は今も、神に創造されたままの私なのだから。

すべての心は、ひとつのものとして創造されているので、私たいはその智識をすべての人のために思い出すことが出来る。

今日は数分のあいだ、あなたの心を空にするために
世界が聖なる神の子の周りに蜘蛛の巣のように張り巡らせている妄想を一掃しなさい。

そして次のように言いながら
あなた自身についての智識を自覚させないようにしている見える鎖がどんなにもろいものかを学びなさい。

☆私は自分自身に贖罪を受け入れる。
 私は今も神に創造されたままの私なのだから。